さみしさ、について
昨日今日と、とても良い天気です。
今日は朝から農薬をまき、畑の草を刈り、トラクターで耕していました。
前回「桃」について投稿しました。
今年は桃を初めてJA共同選果場へ出荷しました。初めての実りと出荷ですから、ちょっとあわてて、と言うかすべてにおいてJA指導員の指示を受けて出すことができました。指導員の方々、ありがとうございました。
ただし、出荷できる数があまりなく、農家の皆様が広い圃場でたくさんの木を栽培している理由がよくわかりました。一つの木から出荷できる実は限られていて、傷の無いもの、形がよいもの、色味がよいものが選別され出荷されます。それ以外はジュースになるそうですが、それでも加工されるものがあるのは良い方で、どうしても廃棄されてしまうものもあります。と言うことで、出荷するものをつくることの難しさ、大変さを実感しました。難しいものです。自然相手ですから、傷や形に気を付けてもすべてを管理することは100%無理な話です。
ということで、いのちの木ではこれまで野菜を作っていた畑に、もう少し桃の木を植えることにしました。
現在ある木は、来年はもう少し実をつけられるように剪定を行いたいと思います。
それはそれで楽しみです。
さて、秋がふかまってきました。秋という季節になると、私たちの仲間から
「さみしい」と言う言葉が聞かれます。
「さみしい」「さみしさがある」
さみしさは、心を縮こまらせ、布団から出て生活をすることが億劫になったり、薬を飲むのをやめてみたり、食べることも面倒くさくさせてしまうことがあります。
これは中々手ごわいです。さみしさは、いつの間にか心を支配して、もともと大変な生活をさらに大変にしてしまうのですから。
どうしたらさみしさに対応できるのでしょうか?
ある方は「さみしいから事業所に通っている。事業所に来ると寂しさがまぎれる」と言っていました。
またある方は「一人でいる時間を少なくする」と言っていました。
別な方は「さみしいことを、なかなか話せない」とも言っていました。
色々と皆さん苦労されています。
でも、さみしさをなかったことにしないで、さみしいからこそできること、考えること、つながることができるのではないか、と漠然と考えています。
皆さんは、「さみしさ」とどう向き合い、どう対処していますか?